フランスのとある街に編集部をかまえる架空の雑誌、「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」。
編集長のアーサー・ハウイッツァー・Jr.が急死し、本人の意向により彼の追悼号が雑誌の最終号となることに―。
今作は架空の雑誌「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」の編集長追悼号であり、最終号そのものを映画化したような構造になっている。
私は今作で、最初から最後まで細部にわたって文化的に楽しめる極上の映画体験をした。
監督のウェス・アンダーソンは学生時代から雑誌「ニューヨーカー」を愛好していて、バックナンバーを可能な限りコレクションしていたという。(参照:「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」公式パンフレット)
そんな「ニューヨーカー」への長年の憧れと愛情からか、今作は特にウェス・アンダーソン監督の映画構成、画作りや細部へのこだわりが際立っていたように感じる。
(当然、監督の過去作品ももちろんのことであるが。)
「フレンチ・ディスパッチ~」の記者たちは、記者に甘い編集長に大切にされて幸せな記者生活を送っていた。
そしてその編集長は、自らが愛した記者たちに合同で追悼記事を書いてもらい、編集長を務めた雑誌と共に見送られた。
記者たちが編集長の死亡記事執筆のために一斉に語り出すのがラストシーンであり、「フレンチ・ディスパッチ~」の最終号のラストページである。
ある意味で幸せな編集長人生と言えるのではないだろうか。
エンドロールまで、この架空の雑誌「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」のバックナンバーの表紙、挿絵が映し出される。
この完璧な映画構成には思わず舌を巻いてしまった。
さらにいうと語り場のシチュエーション、表現手法がバリエーション豊かで多層的である。
それぞれの記事を執筆した記者の口から語られるという形態は同じでも、そのシチュエーションに巧みに変化がつけられている。
自らが街を自転車で巡り体験しレポートし、記者の講演会で聴衆にスライドを見せながら、時には対象者とのロマンスが混じったり、TV番組インタビューで記者の記憶力を確かめるために記事を振り返ったりもする。
記者の人生と取材対象の人生が交錯し複数の時間軸で描かれ、心地良い複雑な構造を作り出しているのだ。
また、事件翌朝の新聞の漫画を表現したアニメーション、記事の登場人物の体験記を記者が翻訳し未来軸で上演された演劇なども合間に組み込まれている。
つまり、シチュエーションの変化が映画表現手法のバリエーションになり、画面上のアクセントとなり、視覚的にもメリハリのついた飽きない面白味へと繋がっている。
これこそ意味と必然性を持った技法多様ではなかろうか!と感動した。
そしてオープニングから思ったことだが、視線誘導が絵画的である。
またワンシーンごとの構図がユニークで1枚の絵のようであり、監督の狙い定められたこだわりを感じた。
例えば静止した街の風景で用水路の水のみが動き出すシーンがあり、以前見たアーティスト横尾忠則の滝の部分が動く絵画インスタレーションを思い出した。
その他細かいところを挙げるとキリがないが、個人的には誘拐犯のアジトでBGMが流れる際、曲中でベースが入るところで合わせて劇中のベースが弾き始められるのが鳥肌ものだった。
視覚的にもワクワクする要素が多く、こだわりがギュッと凝縮された作品なので全てを語ることは難しい。
百聞は一見に如かず。
そして一見では足りずに何度でも観たくなるはずだ。
今作には文化芸術に関するいくつかのチャプターがあるが、私が最も印象的で胸を打たれたのは画家と看守と画商のチャプターだった。
このチャプターには、特に監督の深い芸術への理解を感じる。
獄中の画家が、看守のモデルと、同じく刑期中の画商に見出され、理解を得るストーリーである。
文盲だった看守は監獄の図書室で芸術を自ら学び、その理解で芸術家としての画家を支えるが、彼からの恋愛感情に応えることはない。
そんな彼女が、電気椅子で自死をしようとした画家に彼女自身の生い立ち、画家の苦悩への理解、同情、希望を語るシーンは心揺さぶられるものがある。
また、作品と売買のトラブルで画家と揉めに揉めた画商が、最終的には画家の作品の金銭的ではない価値を認め、彼を誉め抱きしめるシーンも感動的だ。
美術を学んだ者の個人的見解だが、芸術家にとって良き理解者への出会いは人生の宝であろうと思う。
そしてそれは実のところ、「人間にとって」と置き換えても同じことが言えるだろう。
ちなみにこの画家を巡ることの顛末までに途方もない時が流れているところもまた、芸術の途方もない気の長さを表していて、監督の深い造詣を感じる。
そう、こういった全編に渡るウェス・アンダーソンの文化芸術への理解と優しさ、ひいては愛情は、彼の豊富な知識、インテリジェンスに基づくものと言えよう。
それはつまり、人間愛、人間への優しさでもある。
ウェス・アンダーソンの他作品にも通ずることだが、世間からはみ出した変わり者たちへの温かい眼差しと愛情が伝わって来る。
今作で言えば、料理のトピックの警察官天才料理人と驚異的な記憶力のゲイセクシャルの記者の描写が印象的だ。
記者自身が悲し過ぎるという理由で削った部分に、料理人の「私らは探してる、置き去りにした何かを。」という台詞がある。
二人は共に異邦人なのである。
ゲイセクシャルという理由で留置されていた記者をかつて救った編集長は、この部分こそこの記事の本質だと、元に戻すことを勧める。
他には学生運動トピックに登場する、兵役中に自殺してしまった青年モリゾの「親の世界で生きる自分が想像出来ない」という台詞も胸に刺さった。
彼の作品にはこのような人間への優しさ、愛情が感じられる。
ウェス・アンダーソン監督の現場では、スタッフ・キャスト全員が同じホテルに寝泊まりしてコミュニケーションを取り合って撮影をするとのことだ。
サロンのような雰囲気であり、それ自体が表現行為のようだと今作キャストの若手俳優ティモシー・シャラメは語る。
その様子は若手俳優たちの言葉が裏付けている。
同じく若手キャストのリナ・クードリは、“アンダーソン組の撮影現場での生活は、色彩豊かな子どもの遊び場のようで、キャンプのようで、知的ゲームであり、愛があふれる実家にいるようでいて、実は仕事なのです。”(「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」公式パンフレット引用)と語っている。
またティモシー・シャラメは、“監督は、あらゆる参考資料を送ってくれました。雑誌、写真、参考になる映画…例えばフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』、ジャン=リュック・ゴダールの映画などです”(「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」公式パンフレット引用)とも明かしていて、若手への監督の優しさと知的アプローチがうかがえる。
最近話題に上がる、映画現場のパワハラ・セクハラ問題とはかけ離れた現場だと感じる。
私は短絡的な怒りや暴力、争いには知性を感じない。
ウェス・アンダーソンの現場のように、文化芸術へのインテリジェンスな理解が優しさに、ひいては人間への優しさ、愛情こそが良質な作品、モノづくりにつながることを強く願う。
実際ウェス・アンダーソン作品は今作も、構造から細部に至るまで完璧で極上の文化的映画だったのだから。
文化芸術を愛する優しい人たちに是非とも観ていただきたい、至高の一本である。
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