独創性の強いトラウマ的な恐怖表現によって、今世界中から注目されている映画監督アリ・アスター。スウェーデンの夏至祭を舞台にしたトラウマ映画『ミッドサマー(2019年)』は日本でも大きな話題を呼び、『ミッドサマー』でアリ・アスターの名を知った人も多いだろう。長編デビュー作の『ヘレディタリー/継承(2018年)』、2作目の『ミッドサマー(2019年)』と続けて衝撃の問題作で人々に極上の恐怖を届けてきたアリ・アスター監督が贈る最新作。それが今作『ボーはおそれている(2023年)』だ。
主人公は不安症を持つ中年男性のボー。母の死の知らせを受けたボーは、帰省への長い長い旅路へと向かう。その道のりでボーを待ち受けていたのは、数々の恐怖とトラウマとの邂逅だった―。アリ・アスター流の不安と恐怖に満ちた、トラウマロードムービーである。
本記事ではそんな今作の恐怖の味わい深さについて、アリ・アスター監督作品の持つマイノリティ性から読み解いていこうと思う。
監督の不安症を通して見た世界“ こうなってしまうのではないか”という不安が次々と実現していく恐怖
主人公の中年男性ボーは、幼少期からのトラウマによる不安症に悩まされている。カウンセリングに通い向精神薬を処方されるシーンも冒頭から描かれる。そしてそんなボーがおそれている、“こうなったらどうしよう”という不安が次々とボーに襲い掛かっていくのだ。
この“不安症”、つまり精神疾患・メンタルヘルスに問題を抱える主人公ボーの目を通した世界の恐怖を描いているのが、今作の大きな特徴の1つだ。
実は筆者も比較的不安の強い性質を持っているため、「シャワー中に突然強盗が家に侵入してきたらどうしよう」「夜道で背後から襲われたらどうしよう」「この車両で刃物を振り回されたらどうしよう」と常に想像し、逃亡あるいは撃退シミュレーションしながら生活をしている。そのためボーの不安と恐怖にある程度の共感を持って、映画に入り込むことができたように思う。
実際、それらの不安が突然実現しないという保証はどこにもないのである。普段は日常で覆い隠されている危険が全て露わになって襲い掛かって来る恐ろしさが、本作『ボーはおそれている』の恐怖表現の1つだ。内在的な不安と恐怖の映像化である。
アリ・アスターの映画は本人いわく「コメディ」作品であるとのことだ。確かに『ボーはおそれている』にも、つい笑ってしまうほどの大げさな恐怖描写・ふざけているとしか思えないダークなジョークが差し込まれている。
また“こうなってしまうのではないか”という不安が次々と実現していく様はある意味で快感でさえある。長年ホラー作品を愛好してきた筆者としても、次の恐怖展開を期待してしまうホラー要素も大いに感じた。
その言葉通りアリ・アスター監督作の表面的なジャンルとしては、“コメディ”もしくは“ホラー”ではある。しかし、それに覆われた内包的な視点が見落とされがちな気がしている。
昨今カジュアルに使用されがちであった“メンヘラ”という語は、メンタルヘルスに問題を抱える人間に対する差別的な略語である。最近になってようやくこの“メンヘラ”というワードの加害性が問題とされ、使用を控える動きが見えてきたと思う。
この“メンヘラ”という言葉への批判と同様に、アリ・アスター作品での精神疾患の扱い方・描き方に対する批判も上がるかもしれない。
当然その点については議論が必要ではある。しかしこの件に関する個人的な印象としては、アリ・アスター作品に限っては、おもちゃのように扱っているというよりはむしろメンタルヘルスの問題に寄り添った当事者的視点での描写であると感じている。
事実アリ・アスターは対談において、自身も“不安症”であると答えている。(※1)また今作を観た人々の感想についても「不安神経症を抱えていたり、ある種の精神障害を経ていたり、あるいは誰かと共依存のような関係にあるような人々は「わかる」と言うんです。そうではない、いわゆる“ノーマル”な人々は「何が起きているんだろうか」という目で観ているようです。僕たちみたいな人々は、親近感を持って観てしまいますよね。」と語っている。(※2)
なお『ボーはおそれている』はアリ・アスター自身もそう表現するように、“ダークコメディ”である。つまりそれは単に“ネタ”としての消費ではなく、一種の自虐であり、あるいは慰めや癒しの行為に近いとまで言える。
実際にアリ・アスターが「僕も作品を作ることは一種のセラピーだと思います。」と答える場面もあった。(※2)
以上のようなことからも、アリ・アスターの描く不安症や精神疾患に限って言えば、筆者はむしろ好感さえ抱いている。
アリ・アスターの描く不安と恐怖は、マイノリティやアウトサイダーの視点から見たマジョリティ世界へのそれだと感じるからだ。つまりアリ・アスターの恐怖表現は、当然のように“自分は大丈夫だ”と思えるマジョリティの特権性への疑問、そして“本当に大丈夫なのか?”というマジョリティが持つ根拠のない自信と安心感への問いかけである、と受け取ることもできる。世界で日々発せられる銃弾、あるいは悪意や不運が自分に当たらないという保証はどこにもないのだ。
『へレディタリー/継承』『ミッドサマー』から一貫して描かれる、マジョリティ世界からの規範の押し付けに対する恐怖
アリ・アスターの長編デビュー作『ヘレディタリー/継承』で描かれたのは、家族や血縁への恐怖であり、日本でも高い人気を誇る『ミッドサマー』で表現されたのは、恋人や恋愛への依存に対する恐怖とそこからの解放であった。
『へレディタリー/継承』『ミッドサマー』『ボーはおそれている』は三部作であると語るアリ・アスター。(※3)3作目となる『ボーはおそれている』はその集大成だと言える。
よって今作『ボーはおそれている』でも、前2作から恐怖対象が引き継がれているのだ。
例えば今作の本編中で印象的な演劇のシーン。森の中で上演されている演劇に飛び入りで参加することになったボー。その絵本のような夢想世界の中で、ボーは結婚し子をなし血を繋いでいく人生を過ごす。しかし幼少期より母に「性行為に及ぶとその場で死ぬ」家系であると教えられていたボーにとって、その夢想はおとぎ話でしかない。
(この演劇のシーンにはアニメーションが取り入れられている。担当したのはチェコアニメーション映画『オオカミの家』の監督ユニット、レオン&コシーニャ。短編映画『骨』では製作総指揮のアリ・アスターとタッグを組んだ。)
幻想的でもありどこか懐かしい憧憬をはらみつつも、同時に不安と恐怖をも感じる禍々しい映像表現で描かれる、ボーの“幸せな”仮想人生。
このシーンはある意味では“絵に描いたような幸福な人生”でありながら、一方で“婚姻・家族・繁殖などの規範”に対する恐れを表したものだとも受け止めた。
『ヘレディタリー/継承』で描かれた家族・血縁・血を繋ぐということへの恐怖と絶望がここにも投影されているのだ。さらに『ヘレディタリー/継承』においてドールハウスを象徴的なモチーフとして表現した、“家”への恐怖が引き継がれた場面も作中に登場している。
また『ミッドサマー』でもあった表現と同様に、恋愛や性行為に対する不安と恐怖、それどころか死の危険性が今作においても強調されている。『ミッドサマー』と『ボーはおそれている』の主人公はどちらも家族のトラウマを恋愛によって解消しようとするものの、そこにすら裏切りや恐ろしい落とし穴が待ち受けているのだ。
(しかしながらフェミニズム的内容を帯びた前作『ミッドサマー』に対し、今作の若干ミソジニック[=女性嫌悪的]な描写の散見は気になる部分ではある。主人公の性差があるとは言え)
つまりアリ・アスター作品で一貫して表現されているのは、“愛情・血縁・恋愛に付随する依存・束縛・支配への耐え難い恐怖”なのである。またそれは、恋愛・婚姻・繁殖などの規範を当然のように押し付けるマジョリティ世界に対する、疑問とアンチテーゼだとも取れる。
「僕自身あまり居心地がいいと思える人間じゃないので、みんなにも本作を観て、居心地の悪い思いをしてほしい。」と語るアリ・アスター。(※4)
裏を返せばアリ・アスターの描く世界は、マイノリティやアウトサイダーの側から見れば“居心地がいい”世界なのかもしれない。
マイノリティ表象の当事者性または当事者の側に立つことの重要性
マイノリティ視点でのホラー作品と言えば、黒人に対する差別をテーマにしたホラー映画『ゲット・アウト(2017年)』が頭に浮かぶ。黒人の主人公が白人の恋人の実家へ挨拶に訪れると、そこは黒人への差別にまみれた恐怖の家だったのだ―。
『ゲット・アウト』で描かれるのは黒人に対する差別の歴史と、今も続く暴力と搾取とマイクロアグレッションに対する恐怖だ。映画的に誇張されているフィクションではありながら、実際に現代でも人種差別によって殺害される危険性にさらされている当事者の恐怖と絶望、怒りはこれ以上に凄まじいものだと想像ができる。
また60年代ロンドンをフィーチャーした映画『ラストナイト・イン・ソーホー(2021年)』は、いわゆる“業界”で夢を追いながら性的搾取・性被害に遭った女性目線で作られたホラー作品だ。過去も現在も行われている性的搾取・性加害のおぞましさ・恐ろしさを映像によって可視化しており、鑑賞者は主人公と共にそれを追体験する構造になっている。
これらのホラー映画にマイノリティ視点が用いられる近年の流れは、マイノリティが受け続けている命の危険を感じるほどの恐怖を伝えるという意味で有効だ。
昔からマイノリティ表象を差別的に描いたり軽薄に消費・搾取したりする作品やメディアは多い。そんな中、最近ではマイノリティ描写に対する当事者性もしくは当事者の側に立つということが重要視される兆候が見られるのは、とても良い変化である。さらなる全体的な意識のアップデートが、今世界中で求められている。
ここまで述べてきたように、アリ・アスターが描く恐怖はいわゆる“ノーマル”な規範の押し付けに満ちた“幸せな”マジョリティ世界に対する違和感や疑問に端を発していると考えられる。つまり最新作『ボーはおそれている』は、現実で「居心地の悪い思い」をしている人たちへのアリ・アスターなりのプレゼントであり、マジョリティ世界へのアンチテーゼでもあるのだ。
とは言え不安を煽る二重三重の複雑な恐怖構造・展開は、まるで不安と恐怖のミルフィーユであり、特にホラーが大好物の皆さまであれば舌鼓を打つ味わい深さを持つ。この映画が癒しとなるか毒となるかは、個々人の鑑賞時における状況によって異なるだろう。
アリ・アスター個人のトラウマと鑑賞者それぞれのトラウマが重なる、内省的な恐怖の旅路。勇気ある者は、是非とも最新の注意を払って出発していただきたい。
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