伝説のバンド「トーキング・ヘッズ」を知らない私の脳神経を刺激した知的映画「アメリカン・ユートピア」 (「アメリカン・ユートピア(2020年)」レビュー)

review

お恥ずかしながら、浅学な私は「トーキング・ヘッズ」を知らなかった。

1974年結成、1991年解散の伝説のアメリカロックバンド。

それが今作「アメリカン・ユートピア」の主人公デヴィッド・バーン(David Byrne)が所属していたバンド「トーキング・ヘッズ(Talking Heads)」だ。

「ローリング・ストーンズ」は好きだけど「トーキング・ヘッズ」は知らない。

そんな私が、デヴィッド・バーンによるブロードウェイショー「アメリカン・ユートピア」のドキュメンタリー映画を観た感想を述べさせていただきたい。

 

まず私が心を打たれたのは、デヴィッド・バーンが映画序盤で語った脳神経の話だった。

赤ん坊の頃は繋がっていた脳神経が、成長するにつれて切れて行くと言うのだ。

そしてその脳神経の切れ方は人によって違うらしい。

つまり、脳神経の切れ方(経験)によって一人一人がそれぞれ変わって行くと彼は語る。

それを聞いて、“私はもしかしたら脳神経が人より切れていないのかもなぁ。”などと思った。

そしてここで彼が伝えたいのは、「あなたとわたしが違う」のは当然であるということなのではないだろうか。

「一人一人がマイノリティ(少数派)」という言葉はとあるフェミニストの言葉だが、デヴィッド・バーンの話を聞いていると、「マジョリティ(多数派)」こそが幻想なのかもしれないと改めて考えさせられる。

 

劇中で演奏した「Everybody’s Coming To My House」を聴いた時、アメリカを一人称にした(初見はそう感じたが、後で日本語訳を読むと「アメリカを一人称」にしてはいないかもしれない。)移民の心を歌った曲に感じた。

実際デヴィッド・バーン自身もイギリスからアメリカへの移民だそうだ。

同じグレーのスーツを着て、楽器と肉体のみでステージに上がっている演者たちもまた多国籍な移民たちだと言う。

ミニマルな舞台構成が、人間の平等性を強調しているように感じた。

私は、ところ変われば誰だって移民になり得るはずだと思っている。

 

また、劇中でカバーした「Hell You Talmbout」では、白人警官の暴力で亡くなった黒人被害者の名前を叫んでいる。

曲の持ち主である黒人女性アーティストにカバーの許可を取る際、“白人男性である僕が歌ってもいい?”と尋ねたと言うデヴィッド・バーンに好感を持たざるを得ない。

デヴィッド・バーンは黒人ではないのでいわゆる「当事者」ではないのだが、こういった共感性は世界に必要で、まだまだ足りないものだと感じる。

「当事者」だけに任せていいのかという問題が世界には多い。

 

映画を観ているうちに、「トーキング・ヘッズ」さえ知らなかった私はデヴィッド・バーンがすっかり好きになった。

インテリジェンスで共感性もあり、どこかお茶目さも感じられる人柄が魅力的である。

私もこんなカッコイイ前衛的なステージが作れるロックスターになりたかった。

 

ところで余計なお世話だろうが、今作の公演で考えてしまったのは真に伝えるべき層に彼の声が届くのだろうか?ということだ。

例えば彼は公演中、「アメリカの選挙率の低さ」について語っている。

しかし私の想像ではおそらく、今公演の観客たちは「選挙に行く人たち」だろう。

元々問題意識の高そうなインテリ層に問題提起をしたところでどうなるのだろうというひねくれた気持ちがよぎったのは否めない。

デヴィッド・バーンの歌詞は比喩的でインテリジェンスなところが魅力的ではあるが、時に難解・高尚なものは真に伝えたい大衆にはストレートに届かない。

芸術は過去、上流階級の特権であったが、時は流れ大衆へと範囲を広げた。

いかにポピュラーなものに芸術の可能性、メッセージを落とし込むかというのは考えるべき課題の一つかもしれない。

 

とはいえ、デヴィッド・バーンについては彼がロックスターであり、ロックがポピュラーなもの(とは言い切れないが)とするならば、きっと音楽に乗せて心は人々に届いているはずだ。

デヴィッド・バーンは今回、深刻でともすれば暗くなり過ぎるテーマを扱っているが、彼の言葉に絶望は感じない。

それは彼が「ロックスター」であるからだろう。

ジョン・レノンとオノヨーコが伝えた平和の言葉は世界中の人々の心を打ち、デヴィッド・ボウイはベルリンの壁崩壊の一助となった。

問題を放棄せず世界に呼びかける「ロックスター」のような人たちが居ることで、負の方向へ向かう世界への抑止力になっているはずだと私は信じたい。

 

デヴィッド・バーンは移民について多く歌っているように感じたが、当然日本も移民と無関係ではない。

今公演で素晴らしいステージを作り上げた移民の演者たち、この輝かしい人たちを傷付けてまで保持しなくてはならない「国家」とは一体なんなのだろうかと考えた。

「カオス」な世界ではいけないのだろうか。

考えても答えは見いだせない。

今一度「国家」や「移民」について学びたくなった。

 

今作で感じ考えたことは多い。

感性と知性を刺激する素晴らしい映画だった。

 

冒頭で述べたデヴィッド・バーンの脳神経の話、そして彼の音楽に触れてみて、『あなたもわたしも「一人一人がマイノリティ(少数派)」な世界』を見てみたいのだと改めて強く思った。

そんな未来が来ることを私は願っている。

 

2024/08/28追記

マジョリティはその特権性を自覚するべきという意味で、「一人一人がマイノリティ(少数派)」という言葉自体は違うなと現在は思っています。

 

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